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JTOタイトル

日本語教師JTO きっかけ編

 

第一話

ガイジンサンに会う。

     

第二話

Y先生ンチにて。

     

第三話

半熟日本語教師:JTO誕生?

     
 
 第一話.ガイジンサンに会う。

Lisa & JTOMartyがカナダのワーホリに来たきっかけは、日本で1人のカナディアンに会ったこと。彼女もワーホリを使って、日本に英語の先生としてきていた。
彼女と会ったのは、知り合いを介してだった。当時Martyはカルチャーセンターで中国語を習っていた。
その中国語の先生、Y先生(日本人)が近所に住んでおり、何かとお邪魔してはおしゃべりしていったものだった。そのY先生は市の国際交流協会にも所属していて、ボランティアで日本語も教えていた。
その日は中国語の日で、Y先生と一緒に電車に乗ったときのこと。珍しくガイジンサンがいる、と思った。というのも、田舎の町で、トイレ付き、喫煙OKの、1時間に1本の電車にガイジンサンがいること自体が不自然だったからだ。そのガイジンサンはきれいな赤毛でブルーグレーの目を持っていた。
Y先生も好奇心旺盛なので、ずんずん近づいていき、話し掛けた。よくよく聞いたら、今度Y先生が日本語を教えることになっているカナダ人だったじゃないの。Y先生は慣れたもので、色々と話を進めていく。Martyと言えば、「なんてキレイな目の色なんだろ。」と見とれてるだけ。やっとした質問と言えば、若い女性に言っちゃいけない、お約束の「How old are you?」
オマエは中学生か、と言いたくなるような、稚拙な質問だったのをよく覚えている。Y先生の目も確かに泳いでいた。そんな質問にも、慣れてるし平気よ、といわんばかりに、ニコニコしながら答えてくれた。

Martyはそこで生まれて初めて、といってもいいほどのカルチャーショックを受ける。まず、身近に黒髪じゃない、ブルーグレーの目の友達はいなかったからだ(中国人はたくさんいた)。しかも彼女は日本語がまったく話せない。ということは、日本語以外の言語、この場合、英語を使ってコミュニケーションをはからなくてはならない。Martyのつたない英語でなんとか最低限のことは伝える。それがまた、伝わった時のうれしさ。価値観やマナーの違いがわかった時のオドロキ。何もかもが新しいことだった。
その後、Y先生と彼女はY先生の自宅で日本語を勉強する段取りを付けていた。
Martyは興奮冷めやらぬ間に、「Y先生、Martyもお手伝い、したいっっ!」と、半ばムリヤリ日本語クラスに参加。でもそれがMartyの日本語教師の、小さな小さな第1歩だった。

今振り返ってみると、中国人ももちろん外国人だったわけで、これはあきらかに偏見だった、と反省している。でもなぜか、同じ髪の色のアジア人よりも金髪の白人の方が強烈な印象をもってしまう。「ガイジンサン」という言葉を聞いて、みなさんはどんな人を思い浮べますか?やっぱり白人さん?この時のMartyは、まだまだグローバルという言葉には程遠い、井の中の蛙ほどの世界でしかなかったのだ。ホント、常識不足なJTOだった。

 
 
 第二話.Y先生ンチにて。

半ばムリヤリ日本語ボランティアに参加させてもらったMarty。早速Y先生の自宅での日本語クラスに初参加。実はMarty、ホントは日本語を教えるよりも、ただただ彼女と友達になりたかっただけ。好奇心丸出しの一日本人だった。
さて初日、Y先生の家をまだ知らなかった彼女を駅まで迎えに行く。田舎の町で彼女と一緒に歩いていると、イヤでも目立つ。しかも会話は英語。すれ違うおばちゃん達が振り返る。なんともいえない優越感をMartyは感じはじめていた。その時の彼女との会話は今でも覚えている。近所のダイエーでパスポートを含むお財布一式をすられてしまったこと。来たばっかりでショックだったと思う。あとはたわいも無い会話。そのうちY先生の家に到着。Y先生の自宅は、ガイジンサンが喜ぶような純日本風の家。畳、ふすま、障子、松の木、縁側・・・。彼女は充分に喜んでいた。
クラス、といってもいわゆるチューターで、お茶を飲みながらの一対一の授業だった。Y先生の応接室にはホワイトボード、50音表、マグネット等、教えるためのハードは大体そろっていた。まず「あいうえお」からはじめたが、すでに教科書はあった。最初、Martyは見ているだけで楽しかったが、教科書に載っている会話文の相手を命じられ、一緒に会話の練習をする。

実はその段階で日本語教師としての必要な技術は特になく、Y先生ご自身も特に資格を持っているわけでも、特別勉強してきたわけでもなかった。ただ「日本人」ということ。でもカナディアンの彼女にとって、「ただの日本人」ということが一番だったようだ。Y先生の自宅そのもの、休憩時間の日本茶、和菓子・・・。それだけで彼女は喜んでいた。
彼女は、近くのプライベートでやっている英語教室の先生をしていた。すてきな大きな洋館の中に教室があり、授業はすべて英語。彼女を含めた3〜4人のカナダ人が共同生活していた為、日本語を話す機会はほとんど無く、そのY先生の家が唯一の日本の文化に触れられる時間になっていた。そのことをY先生はわかっていたので、なるべく日本でしか食べられないもの、感じられないものなど、文化を中心に教えてあげていた。誕生日には桐の下駄をプレゼントしたりして。
でも、彼女の日本語の方はイマイチだった。というのも、彼女自身が忙しくて、日本語クラスの時間すら取れないこともしばしばあったから。文法面は全く手をつけられず、Martyと電話で話す時も英語。1年間日本にいたが、挨拶くらいしか覚えていなかったようだ。そしていつの間にか帰国の時が近づいていた。
しかし、それも1つの日本語クラスだった。生徒の事情によって、教え方も変えなくてはならない。どこまで覚えたいのか、どこまででいいのか、目標は生徒一人一人で違う。彼女の場合、「コンニチハ」「アリガト」がわかれば、それで十分だったようだ。

さて、ここの市のボランティアシステムだが、市の国際交流協会が中心となっている。
まず、誰でも日本語ボランティアとして登録できる。そしてその市に住む外国人もその日本語ボランティアに登録できる。もちろん無料。登録後、その外国人には近くに住む日本人の日本語ボランティアを紹介してくれる。日本語ボランティアの方にも「こういう外国人が行きますのでよろしくお願いします」といったFAXが流れてくる。そこで少々、国籍や環境を事前に知ることができる。その日本語ボランティアには、協会から教科書が無償で貸与されるので、それを使用できる。
といったシステムになっている。ここはしっかり基盤ができており、定期的に日本語ボランティアのミーティングや、講師を招いて日本語教師の養成講座も開催していた。

彼女とは日本語教室以外ででも会う機会が多くなっていった。
パスポートの紛失、再発行申請をするのに、カナダ大使館に行かなくてはならなかった彼女。たまたま自分達も東京方面に行く用事があったため、帰路だけだったが自分達の車で一緒に帰ることができた。彼女のクルマをKatsuが直したり、車検に通してあげたりと、当初の予定通り、だんだんと友達になっていくことができた。もしかして彼女からみたら、異様なほどの親切ぶりだったかもしれない。でもこれまた今振り返って見ると、Martyは彼女と一緒にいるときの、周りの人の目が面白く、ただ優越感を得たいが為の行為だったのではないか、とまたまた反省する。
まだまだ子供のJTOでした。

 
 
 第三話.半熟日本語教師:JTO誕生?
Deanne

彼女が帰国する直前、彼女の後任の、これまたカナダ人に会い、日本語クラスも引き続きY先生の家で引継ぐ事になった。その年2人目のカナダ人は、黒髪の、おとなしい女性だった。
その頃、Martyは少しでも日本語の教え方を覚えたくて、ぼちぼちと日本語教師関係の情報を集めていた。国際交流協会の日本語教師養成講座に行ってみたりしたが、コースの途中だったため、ナニが何だかわからず、1っつも覚えていないのが悲しい。さらに、市内に養成講座を設けている学校がないか調べてみたが、田舎だったので、日本語教師養成講座専門の学校どころか、外国人のための日本語学校自体がなかった。都会に行けば山ほど学校はあるのに、田舎のサガね、と、自分の怠惰な活動力を田舎のせいにしたこともあった。
しかし、こういうところでは通信教育がもっとも便利、ということにも気付いた。そこで短期間で学べる通信講座を受講する事に決定。今はときめく、「A」の6ヶ月短期講座を受講した。

丁度そのころ、Y先生の日本語クラスの生徒が増え、手が回らなくなっていた。Martyは協会に登録してはいなかったが、Y先生の意向で個人で引継ぐ事になってしまった。さて、Martyは日本語の教え方も知らないし、教科書も無い。一体どうすりゃいいんだ、と悩みに悩んだ結果、教え方は「A」のを利用、教材は自分で作ることにした。と言っても、思いつくのは「あいうえお」の表だけ。パソコンのエクセルを使って50音表は作ったが、それっぽっちじゃ屁の役にも立ちやしない。「A」の勉強と並行しながらだったので、そううまくいくわけもない。
要は、「経験」。
机上でいくら百点を取ったって、それを実践で役立てられなければ、何の意味もないよね。講座自体は無事終了。修了書も頂いた。無いのはたった一つ、「経験」。結局、引継いだカナダ人も忙しくて日本語クラスどころではなかったし、50音も一通りやっただけで、うやむやのまま尻つぼみ状態、そしていつしか日本語クラスはなくなった。経験の「ケ」の字も身につかないままに。そのうち、通信講座で勉強した内容はどんどん薄れてくるし、ワーホリの準備も拍車をかけ、講座の内容を忘れかけてきていた。もっとも、コタツに入ってみかんを食べ、音楽を聴き、目がトロトロしてくればそのままちょっとお昼寝、なんて状態で勉強していた姿勢こそが、「貴様、たるんどるぅぅ」というもの。講座を終了した時点で、「Martyもやればできるんだぁ」と、ヘンな自己満足の世界に入っており、それで安心しきっていただけのことだったのだ。
勉強したことを確実に自分のものにするには、それを使う事。当時のMartyにはできなかったなぁ。

これをお読みになっていらっしゃる、日本語教師の諸先輩方々。
きっと、「あま〜い。」と思っていらっしゃるでしょう。今、Marty自身が「あまかった」と、ジンジン感じております。この写真の彼女には、大変申し訳なかった、と、重々反省してます。
「A」の講座は、結局日本語を教えるためのきっかけを作ってくれた。付属の月刊誌や教材の案内等は、色々と勉強になった。が、その月刊誌に載っている質問コーナーの質問それ自体や、教え方のポイントコーナーの意味がさっぱりわからなかったのも事実。
結局この時点で、Martyはな〜んにもしていなかったのと同じだった。もしかして自分には向いていないのかも、なんて思ってみたりもしたけど、何もしてないのに、向き不向きもないよね。それなのに、ワーホリの申請用紙の日本での仕事の欄には、ちゃっかり「日本語ボランティア」なんて書いちゃった。えへ。
ま、「半熟日本語教師JTO誕生?」なんて題名にしたけど、誕生なんかせず、不発に終わったのであった。チャンチャン。

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