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日本語教師JTO 養成講座編4

 

第三十七話

授受表現・条件表現。

 

第四十一話

〜んです。

第三十八話

授業見学。

 

第四十二話

敬語。

第三十九話

受身文。

 

第四十三話

とき。

第四十話

教案作成指導。

     
 
 第三十七話.授受表現・条件表現。

授受表現。「あげる」「もらう」「くれる」がそう。モノの授受と行為の授受と、2種類あると思っていい。その前に、この「授受表現」。難しいのよ〜、Martyにとって。なんでって?実は、Martyの田舎・会津では、「あげる」と「くれる」が同じなのだよん。
「この洋服、もう着られないからあげるよ。」
という文章、
「この洋服、もう着らんにぃがら、くれっから。」
と言う(多少方言含む)。やんなっちゃうね。このことを知ったのは、矢野アカデミーでの講座のとき。なーんか違和感あるし、いまいち飲み込めないな、と思っていたら、こんな方言が邪魔をしていたのだ。余談だが、沖縄の友達もまったく同じことを言っていたのには驚いた。言葉も波紋のように、だんだん地方へと広がっていき、遠くはなれた地域で同じ方言が使われていたりする、ということを言っている人もいるという。
とまあ、教える立場のMartyが悩んでちゃぁ、先へは進まない。
「あげる」と「もらう」は、英語にしろ中国語にしろ、ちゃんと適した訳がある。でも「くれる」にはないんじゃない?「くれる」っていう必要ないのかな。主語とかを入れ替えればそれで済むもんね。だから、教科書では「あげる」と「もらう」は一緒にでているが、「くれる」は混乱しないように、少し後にでてくる。
「行為の授受」・・「〜てあげる」「〜てもらう」「〜てくれる」も、一体どんな状況でこれらの言葉を使うのかが大切。「て形」を使うので、動詞の形も確認しながら。んで、さらにこの表現には、敬語もある。
「〜てあげる」は「〜てさしあげる」のように。

条件。条件といったら(←これも実は条件)、「と」「ば」「たら」「なら」がある。
「と」。「春になる、桜が咲きます。」など。じゃぁ、「春になると、花見にいきましょう。」って、ヘン?「私が話すと、みんな笑ってください。」って、ヘン?どうヘン?なんでヘンなの?というのは、「と」という言葉の持つ性質として、文末にくることばに制限があるからだ。使えない言葉がある、っていうこと。こんなの、意識してた?
「ば」。「一生懸命勉強すれ、試験に合格できます。」など。じゃぁ、「一生懸命勉強すれば、合格したいです。」はヘン?これも「と」と同様、文末の制限が多い。文末だけじゃなく、「ば」の前の動詞の変化にも気をつけなければならない。「勉強するば」や「勉強しますば」など、ぜったい言わない。日本人は間違えないけど、外国人にはこの動詞の変化−つまり「ば形」も教えなければならない。「ば形」とは、「ば」の前の動詞の母音が「え」段になる変化。「勉強する」は「勉強すれ(ば)」、「書く」は「書け(ば)」のように。しかもい形容詞にも使える。「暑ければ」「大きければ」など。
「たら」。「一億円あったら、世界旅行に行きたい。」「授業が終わったら、掃除してください。」「友達の家へ行ったら、留守だった。」など。これはかなり自由に文を作ることが出来る。文末の制限もないし、「たら」の前の品詞も全部つかえる。「終わったら(た形)」「高かったら(い形容詞)」「便利だったら(な形容詞)」「私だったら(名詞)」のように。ただ、この「たら」、気をつけなければならないことがある。最初にあげた3種類の「たら」。これらすべて、別々のグループなのだ。つまり、導入方法が違う。例えば最初と最後の例文に「もし」を付けてみたらわかりやすいかな?
「もし一億円あったら、世界旅行に行きたい。」・・OK。
でも「もし友達の家へ行ったら、留守だった。」ヘンだね。
「なら」。「〜♪伊東へ行くならハ・ト・ヤ。電話は4126(ヨイフロ)。♪〜」最近このCM見なくなったなぁ。これは初級で導入すべき文型だ。「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな。」これもそう。でも実はこの表現、ちょっと難しい。中級で勉強する。

こう見ると、日本語って、難しい。これを一つ一つ文法から勉強していく学生は、もっと大変だと思う。最近、自分が何気なく使っている言葉をふっと振り返るときがある。日本人なのに、実際今自分が話した言葉の中の動詞を、TグループやUグループに、知らず知らずのうちに分別しているのだ。なんか、逆だよねぇ。でも、面白い。

 
 
 第三十八話.授業見学。

このころから、実際の授業を見学するチャンスをいただいていた。その理由の1つに、近々「教育実習」があるから。・・・そう、「教育実習」。はぁ。避けては通れないこの授業。この言葉をきいただけですでに緊張感が体中に走る。今回の実習は初級のクラスに入り、50分間の授業をすること。まだどこの課を教えるかは、この段階では不明だった。まずはその前に、実際の先生方の授業を拝見し、クラスの雰囲気や授業の進め方などを知っておこう、という授業見学。毎日の養成講座は夕方6:00からなので、日が高い昼間に学校へ行くのは、また違った感じでワクワクした。
その日の授業見学は午後の初級クラス。レベルとしては「みんなの日本語」の2冊目に入ったばかりのクラス=初級の後半を勉強しているクラスだった。担当の先生に挨拶し、一緒にクラスへ入る。いつもの先生とは違う人がいるぞ。(この人だれ?)という視線がMartyに突き刺さる。教室の1番隅っこに行き、簡単に自己紹介。あとは担当の先生のペースで授業が進められていく。
いつもMartyが講座の中でしていた演習の雰囲気とはまったく違っていた。何が違うって、学生の人数。演習時は3〜4人の学生に協力してもらっていて、その状況に慣れつつあったMarty。ところが、実際のクラスというのは、14〜5人の学生がいるわけで、雰囲気、熱気、ざわめきなど、すべてにおいてテンションが高かった。ふ〜む。これが「生」なんだな、と感じだ。
この日の導入は「〜かもしれません」。丁度サッカーのワールドカップの時期だったので、その話題をさりげなく出し、「明日の試合、日本は勝ちますか?負けますか?わかりません。勝つかもしれません・・・・・。」と、さりげなく導入。その後たくさんの例をだし、自然の流れの中で学生自身が自ら気づくような方向へもっていき、それがきちんと学生に伝わっていた導入だった。
講座の演習では「導入」から「練習」までをしており、その時間というのは15分くらいかけてた。というより、15分くらいかかってしまっていた。ところが、今回の導入は5分。しかも変換練習も入れて。これは短い。Martyが考えていたよりもはるかに短い導入だった。そしてその導入のあとの「定着」のためにたぷっり時間をとっていた。覚えた文型を定着させるためには、練習したことをさらに発展させなければならない。それもただ適当にするのではなく、学生自身と関係のある事柄を出してあげる。そうすることにより、それぞれの学生の体験・経験と文型が結び付けられ、より定着度が高まる、ということ。このように一言で言ってしまうのは簡単だけど、実際に授業することを思うと、教師側の経験やアイディアなどが問われる瞬間でもある。
練習までだったら、教師の言ったことを学生が鸚鵡返しに言えばよかったが、発展練習となると、学生のほうからさまざまなヘンな文章が出来上がってくるもの。それを的確に直すのも大事な教師の仕事。もしMartyがこの場の先生だったら、ちゃんと説明できるかな・・・。と一抹の不安を覚えた。さらに、これだけの人数の学生がいると、授業中に1回も発話しないで終わってしまう学生もいる。そこを教師はバランスよく、全員に発話のチャンスがあるように当てなければならない。今回の授業では、学生全員に発話のチャンスがあり、それぞれ自分の考えを言うことができていた。

初めての授業見学。改めて感じたことは教師の声は、大きければ大きいほどいい、ということ。コレだけの学生をまとめる時には腹の底から声をだして、はっきりと、簡潔に言わなければならない。
そして「臨機応変」。今日はこの文型を導入して、この練習をして、何分にはロールプレイをさせて・・・・と、分刻みの計画を立ててきても、その通りには行かないもの。そういう時でも常に考え方を柔軟にしてすぐ学生に対応できるような体制を取っておくことが必要だと思った。
これからまだ授業見学が続くが、先生たちのいいところをドンドン盗んで自分の授業に役立てたい。

 
 
 第三十九話.受身文。

受身文。どんな例文があるかな?そう言われて、Martyとリンさんと、それぞれ紙に思いつくまま書いていった。
M:「犬に噛まれた。」
リ:「私は財布を盗まれた。」
M:「雨に降られた。」
リ:「私は隣の人に足を踏まれた。」
M:「社長は尊敬されている。」
リ:「母の日に母のことが思い出された。」・・・・・
書いた紙を集め、講師の先生がそれぞれ確認し、黒板に分けながら貼っていく。そしてこうおっしゃった。
「面白いですね。Martyさんのは主語がないんですね。」
・・・・おぉっ?自分じゃ気づかなかった。確かにリンさんのはきちんと「私は」と入っている。
「Martyさん、どうして主語がないんですかね。」
先生はニコニコしながら聞いてくる。
「・・・・普通、言ってないですよね・・・。明らかに自分のことですし・・・。」
そうなのだ。「受身」というものは普通、自分のことに使う表現なので、特に「私は」という単語が必要ない。つまり、受身を使った文章というのは自分のことになる。リンさんはその点、きちんと主語を入れているのだが、これはやはり日本語を外国語として勉強してきた結果がそうさせていたものであった。それにしても最後の例文「母の日に母のことが思い出された。」は、すばらしい文章だ。リンさんってすごい。日本語能力の高さを改めて知った。Martyはこんな文章、思い出しもしなかったわ。へへ。

じゃぁ、そもそも受身文、ってどうして使うのかなぁ。
「犬は私を噛んだ。」
「私は犬に噛まれた。」
これはただ単に「した」のと「された」のと、対象を逆にしただけなんだろうか。そしたら受身にする意味は何なんだろうか。結果だけならどっちの文章を使っても同じなんじゃないだろうか。
受身文は、実は日本語ならではの特徴を持っているのだ。単純に文章の入れ替えだけだったら無理に使う必要はないよね。でも、コレ、表記上の違いだけじゃなく、もっと大切な、「気持ち」がかかわっていたのだ。「気持ち」。気持ちが文章上に現れる。勉強している学生たちにとって、複雑不可解な文型だろうなぁ。だから逆にこの文型を教えるときは、「気持ち」を入れて教えてあげないと、無意味な文型になってしまう。

その他、
「雨に降られた。」
なんて、ほかの外国語では見られない表現もある。これだって自分の「気持ち」がたっぷり入っている。日本語はその表情が豊かだな、と最近頓に思う。繊細で奥ゆかしくて、気持ちによって変わる表現。日本語の勉強を始めてから、何かを話すたびに自分の話した言葉を頭の中でもう一度反復し、確かめるクセがついてきた。「今自分が話した言葉、ヘンな表現なかったかなぁ。間違った言い方してなかったかなぁ。」と。だから最近、なんだか頭が疲れる(笑)。こんなんじゃいけないんだけどね。

 
 
 第四十話.教案作成指導。

「教案」。今日はこれを教えて、この後にこれをして、このくらいの時間になったら活動をして・・・・・。というような、その日の授業の計画書のこと。と、Martyは思っていた。もちろん、間違ってはいなかったが、まだまだMartyの考えはあさはかで、ちょっと考え方が単純だった。この時点でMartyはまだ、教案をたんなる「メモ」程度にしか考えてなかった。せいぜい箇条書きに項目をだしておき、あとは自分のペースで・・・・・なんて感じ。でもこれが実際に教案を作ってみると、大変な作業ということに気が付く。
じゃぁ、どうして教案が必要なのか。時間配分を考えるため?授業の目標を達成するため?授業の目標ってナニ?ただやることだけを書いておけばいい?
「今日はこの文型を教える」という目標もあると思うが、教えただけでは意味がなく、学生自身がその文型を使えるようにしてあげなければならない。これは前回の授業見学でよーく思い知らされた。そうすると、単に今日教えるべき項目をその通りに教え、終わり、という授業にはならないといえる。というのは、学生自身に発話させることを考えたとき、どうしてもヘンな文章が出来上がってしまうからだ。教師は学生が、どんな間違った文章を作るのか、きっとここをコウ間違えるのではないか、と予測しなければならず、そこまで考えたことを教案に盛り込まなければならない。これはもう想像の世界。つまり、教案というのは、紙上の授業と言える。シュミレーションという言葉がいいかな。「臨機応変」も大切。
講師の先生がおっしゃった。
「書けないことは、できないこと。」
そのとおりだと思った。でも教案は、あくまでも自分がわかればいいものである。

これまで講座の中で演習をするときには、やること、いうことを書き、それを見ながら演習に臨んでいた。これも小さな教案になるだろう。でもこの演習教案は、授業で言えばたった最初の10分程度の内容でしかなかった。実際の授業は、この学校で言えば50分が1コマ。1人の先生が担当するのは2コマ。つまり、本来は100分の授業をこなさなければならない。ということは、100分の教案が必要になる。・・・・・・げー。今のMartyには想像できない世界じゃ。
今回のMartyの教育実習は50分でいいとのこと。それでも長いな・・・。と思うのは今だけなのかなぁ。そしてその教育実習の日が徐々に近づきつつあった。いやーん。

 
 
 第四十一話.〜んです。

「〜んです」。この言葉、よーく使う。例えば、
A:「その荷物、どうしたんですか。」
B:「海外旅行に行ってきたんです。」
A:「そうなんですか。」
B:「実は、お土産があるんですが・・・。」など。
「〜んです」って、なんだろう。これに意味があるのだろうか。
じゃあ、「んです」をなくしてみたら?
A:「その荷物、どうしたのですか。(どうしましたか。)」
B:「海外旅行に行ってきました。」
A:「そうですか。」
B:「実は、お土産がありますが・・・。」
これでも問題ない。通じる。でも、でも、なんか事務的というか、ロボット的というか、感情があまり入ってないような印象を受ける。逆にこの「んです」が入った文章だと、より自然な日本語に聞こえる。つまり、学生にとって、「んです」の文章が話せるということは、もう一歩日本語に近づくということになると思う。
では、これ、どう導入すればいいの?「んです」って、いつ使っているんだろう。今までこんな「んです」ごとき、まったく気にもしていなかった。というより、これが学生に教えなければならない文型だとは知らなかった。
いつもなら「どうしましたか。」と学生が言っているところを「どうしたんですか。」と言わせるようにしなければならない。ということはその前に、教師側が「どうしましたか。」と言葉を声をかけられるような状況を作らなくちゃいけない。例えば頭に包帯を巻いてくるとかバントエイドを顔に貼ってくるとか・・・・。
ここから導入に入っていく。

でもこの「んです」。覚えたら覚えたで、学生は使いたがる。連発しすぎないように注意も必要。

 
 
 第四十二話.敬語。

敬語には、皆さんご存知の通り、「尊敬語」と「謙譲語」がある。「丁寧語」も仲間かな。
まず、これらの敬語、自分たち日本人がきちんとした敬語を使っているだろうか。教える云々より前に、自分たちの敬語をちょっと見直してみようと思う。
敬語って、一体いつ使うもの?目上の人に対して。お客様に対して。始めて会った人に対して・・・・。など。仕事上、接客しなければならなかったり、営業で顧客先を回らなければならなかったりと、実際の現場で使っているのなら自然に身につくものである。Martyもデパートで接客のアルバイトをした経験がある。デパートはお客様第一。ヘンな言葉遣いをすると、お客様のほうからクレームがくる。時々いるんだよね。会社員時代には新人研修として、電話の受け答え等、泊りがけで勉強した覚えがある。言葉だけじゃなく、動作も一緒。今思うと、幸せだった。
最近ではこんな新人研修にお金を使っていられない企業ばかりだし、それ以前に新人君を採用しない。だからあぶれた新人君たちは社会人としての敬語を勉強できないまま親になっていく傾向がある。親が敬語を話せないなら、その子供も話せなくて当然。それに、敬語を話さなければならない立場の人が身近にいないのかもしれない。尊敬出来る人がいないってこと?

敬語は、普段使っていなければ、いざって言うとき使えない。養成講座で「尊敬語」「謙譲語」を改めて勉強したが、もう忘れてしまっている言葉もあった。は・恥ずかしい・・。一緒に勉強しているリンさんはどうだろう。・・・・これが、これが、実にすばらしい。普段の発言のときにも尊敬語は完璧に使用していた。もちろん謙譲語も自由自在に操っていた。よくよく聞いてみたら、リンさんの専門は日本語の敬語だそうだ。もう、リンさんったら。
この敬語を外国人が使うときというのは、学校の先生やバイト先のお客様に対してだろう。かといって、敬語は非常に難しい文型だ。慣れない敬語を間違って使うよりは、きちんとした丁寧語をきちんと使うほうがよっぽどいい。敬語は相手があって使うもの。その相手が心地よく、気持ちよくなる言葉。
初級段階では、とにかく聞いて分かるようになる、ということに重点をおいて勉強させる。
その前に、自分がきちんとした敬語を話さなくちゃね。

 
 
 第四十三話.とき。

1.「国へ帰るとき、お土産を買います。」
2.「国へ帰ったとき、お土産を買います。」
3.「国へ帰るとき、お土産を買いました。」
4.「国へ帰ったとき、お土産を買いました。」
さて、この4つの文章を比べたとき、一体どこでお土産を買うのでしょう。この複雑な時制。学習者にとって頭が痛い文型である。学習者だけじゃなく、実はMartyもこんがらがっちゃった。
このころの講座では、講義のあとすぐ「では、実際にやってみてください。」とふられる。頭の中が整理できていないままフラ〜っとホワイトボードの前に行き、例を出して実演。う〜ん、むずかしいーよー。
で、Martyが実際に使った例文は
「旅行へ行くとき、パスポートを作ります。」
「旅行へ行ったとき、パスポートを首から下げます。」
「旅行へ行くとき、パスポートをカバンにしまいました。」
「旅行へ行ったとき、パスポートをなくしました。」
・・・・センセイ、困った顔。すんません。こんなんで。これらの例文、参考にしないように。
「じゃぁ、実際に日付や、今、自分がいる場所を考えてみましょう。いつ・どこで、というのを考えてみましょうか。」
センセイ、いい方向へ軌道修正してくれているのね。でも、そのように考えてみたら、だんだんこの文章の言わんとすることがわかってきた。結局日本語って、文章の最後の動詞の時制がポイントなのよね。
1の時、「私」はどこにいるのだろう。そう。まだ国へ帰っていないのよね。
じゃあ、2は?お土産は買ったの?買ってないの?
3の時は「買いました」だから、買った場所を考えてみる。
4の場合は考えることもなく、「国」で「お土産」を「買った」ということ。
初級の段階でこれ全部を教えるわけではないけど、教師側は知っておくべき項目だ。
でもはたして、私たちはこんなこと考えて「とき」を使っていたかしら?意外と日本人の日本語の文章って、いいかげんだったりするんだよね。

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